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東京地方裁判所 昭和37年(ワ)301号 判決

原告 中島邦一

被告 中島弥子こと安藤弘子

主文

被告は「中島」の姓を称号使用してはならない。

訴訟費用は被告の負担とする。

事実

一、原告訴訟代理人は主文同旨の判決を求め、その請求原因及び被告の主張に対する反論として次のように述べた。

(一)  原告は昭和二二年被告と婚姻し、そのさい夫婦は原告の氏を称することに合意したので、被告は旧姓「安藤」から「中島」姓を称するにいたつた。結婚後被告は服飾デザイナーを開業したが、事業は逐年繁栄の一途を辿り、銀座に原告と持分折半の有限会社アトリエ中島を設立し、昭和三一年にはデザイン研究のためフランスに渡り、帰国後は吉忠株式会社の専属デザイナーとしてめきめき業界に進出して名声を得るとともに、テレビのタレントとしても数々の番組に出演するようになつた。原告は東京帝国大学卒業後竹本油脂株式会社に入社していたものであるが、もともと芸術家的資質をも有していたので被告のデザイナーとしての進出には物心両面から援助を惜しまず、被告が今日の地位を得るについて大きな寄与をしたものである。もともと被告は高慢な性格の持主で、妻としての資格にも欠けるところがあつたが、その傾向は被告が世間的名声を得るにともない益々増長し、夫たる原告をないがしろにするようになつたところ、その間原告はよく協調しようとして努力し、ために永年勤続して東京出張所副長の地位にいた竹本油脂株式会社を退職して被告の父安藤繁次が代表取締役である建設保全株式会社に常務取締役として入社し株主となつたのである。しかるに被告は突然昭和三二年ごろ家財道具一切を持出して原告の肩書住居を家出し、以後原告と居を共にせず、離婚したい旨を強硬に申入れて来た。原告は種々飜意を促したが被告の離婚の意思は固いのでやむを得ず、いくたびか交渉を重ねた末昭和三六年一月二八日原被告は協議離婚をし、これにより被告は「安藤」姓に復氏した。しかして右協議離婚にさいし原被告は種々協議事項を定めたがその中で被告は原告に対し「昭和三六年二月二八日以後は被告は中島なる姓ないし類似の称号を商号、ペンネーム等に使用しない」旨を特約した(以下これを本件特約という)。これ、原告の属する家は故郷諏訪の名家であり、原告自身も東大出身の実業人として知名の存在であり、中島の姓はこれらの名誉の象徴であるから、被告が離婚後も依然として婚姻中の姓中島をを冠して社会的活動をすることが原告及びその肉親らにとつて耐えがたいことであつたがためにほかならない。

しかるに被告は右日時を経過した後も約旨を守らず、テレビに、婦人雑誌に「中島」の称号を使用して自己を表示しているので、ここに右約旨にもとずく履行の請求としてその不使用を求める。

(二)(1)  本件特約が被告の非真意の意思表示であり、原告がこれを知り又は知り得べかりしものであつたことは否認する。本件特約は相当長期間交渉の末被告の兄、母、仲人竹野家茂、渡辺弁護士らが立会つて双方納得の上契約したものである。

(2)  本件特約は被告の窮迫に乗じたものではない。離婚にさいしては被告の方から種々の条項が提出され、いずれも原告に不利のものであつたが、原告はただ一つ本件特約のみを主張したのであり、これは離婚の結果なる復氏に相ともなうものであつて、原被告、立会人とも異議がなかつたのである。

(3)  原告は離婚にさいし有限会社アトリエ中島の持分、建設保全株式会社の株式等一切を被告に譲渡し、被告の営業活動と生活権を保障しているのである。本件特約は単に称号の使用を禁止しているのみで、なんら自由権、生活権を奪うものでなく、憲法違反などあり得ない。

(4)  本件特約はなんら社会の健全な倫理観念に反するものではない。離婚にさいし原告はその実質的利益の全てを放棄した。被告には妻たるの資格に欠ける行為があつたのに原告は和合につとめたが、被告が強硬に離婚を求めるのでやむなくこれに応じたもので、その責任は被告にある。かかる場合原告及びその属する家の姓に象徴される名誉を保全するため約した本件特約はなんら倫理観念に反しない。

(三)  本件特約の履行を求めることはなんら権利の濫用ではない。被告が「中島弘子」なる名声を築くについてはあげて原告の夫として、協力者としての助力によるものであつて、この一事によつても本件特約の実質上の理由がある。のみならず本件称号使用の禁止は原告及びその属する家の名声を保全するための必要がある。人がその職業的活動において自己を表示するために称号を用いる自由があるとしてもこれを正当の事由にもとずき自から任意に制限することはなんらさしつかえないのである。家なるものの観念が法律上はともかくも日本の現実の社会においてはなお存し、その家のになう名誉はなお現実に没却し得ないものがあるのである。

(四)  原告が本件名称の使用を承諾したことはない。

(五)  本件特約はその履行を単に債務者の信義に一任する如きものではない。これを直接に強制する方法はないとしても、履行を確保する方法はあり得るものであり、給付判決を受けるにさまたげはない。原告が将来にわたつて不作為を求めるゆえんは、現に被告が離婚後にもかかわらず婚姻中の夫婦のシンボルであつた「中島」姓を称して、しかも独身女性として振舞つており、このようなことが今後もくりかえされることは原告の名誉心をいちじるしく害するからである。

二、被告訴訟代理人は原告の請求を棄却する、訴訟費用は原告の負担とするとの判決を求め、答弁及び主張として次のように述べた。

(一)  原告主張の事実中被告の姓が安藤であり原告主張のころ原告と婚姻し原告の氏である「中島」姓を称するにいたつたこと、被告が服飾デザイナーを開業し、有限会社アトリエ中島を設立し、昭和三一年デザイン研究のため渡仏したこと、吉忠株式会社の専属デザイナーであり、テレビのタレントとして番組に出演したこと、原告が東大卒業後竹本油脂工業株式会社に入社し、後これを退職して被告の父安藤繁次が代表取締役である建設保全株式会社に入社し、常務取締役となり、株主となつたこと、被告が昭和三二年原告の肩書住居から被告の肩書住居に別居し、爾後離婚を要求したこと、昭和三六年一月二八日原被告間に協議上離婚が成立し、被告が安藤姓に復氏したこと、そのさい被告が原告主張の特約をしたこと、原告主張の日時以後も被告が「中島弘子」なるペンネームを使用していることは認めるが、その余の事実はすべて争う。

(二)  被告が服飾デザイナーを開業するについて原告から物心両面の援助を受けたことはない。有限会社アトリエ中島は婦人服の製造販売及びデザインを目的として昭和三一年一月資本金二〇万円で被告が設立し、自ら代表取締役となつている個人的会社であり、原告も出資五〇口(計金五万円)の社員となつたが、これは原告の名義を借りたに過ぎず原告は実際に右出資金を支払つたことはなく、また業務を執行したこともない。被告が渡仏し、パリに一年を余滞在してデザイナーとしての研究をしたその費用一切は吉忠から支出されたものである。むしろ原告は被告との婚姻中ほとんどその生活費を負担しないので、被告は渡仏中も有限会社アトリエ中島から受ける給料のうちから毎月三万円を支出して家計を維持したくらいである。被告が高慢で妻としての資格に欠けるというようなことはなく、原告をないがしろにしたことはない。原告は前から他の女性と交渉があり、それを清算しないまま被告と婚姻し、また婚姻後もしばしば他の女性と交渉をもち、被告の渡仏中これを家に引き入れ、被告の帰国後も目に余る行状をくりかえし、なんら改めるところがなく、被告は同居に耐えない侮辱を受けたので、ついに自分所有の身廻り品をとりまとめて家を出たのである。原告が竹本油脂株式会社を退職したのは被告と協調するためではなく、その勤務上の不成績から愛知県蒲郡の本社に転勤を命ぜられたのをきらつたためで、建物保全株式会社への入社は原告のたのみによる。入社にさいし原告を常務取締役とし、ある程度の名義株を持たせたのは娘婿としての世間ていを考えた被告の父のはからいである。別居後原告は仲人であり学校の先輩である竹野家茂を通じ復縁方を申出たが、被告の離婚の決意は固く、どうしても離婚したいと申入れたが、原告は自分が悪かつたというだけでなかなかこれに同意する様子がなかつた。かくして交渉を重ねるうち四年の月日がたち、被告は苦慮の余り、財産のすべてを渡すから被告の仕事の邪魔をしないよう申し入れて、ようやく協議離婚を承諾せしめたのである。協議書作成の段階にいたつて渡辺邦之弁護士の提出した協議書原案にはじめて「中島」の名称使用禁止の条項がはいつているので、被告は強くその撤回を求めた。しかし渡辺弁護士はこれを問題にすると離婚はさらに四、五年はかかるというので、被告はやむなくこれを承諾したところ、協議書調印のさいには「中島」の外に「類似称号」の一句がさらに附け加えられていたものである。

(三)  本件特約は次の理由によつて無効である。

(1)  本件特約は被告の非真意の意思表示にもとずくものであり、原告は当時これを知り、もしくは知り得べかりしものであるから民法第九三条但書によつて無効である。被告は別居後原告との離婚を求め、以来四年にわたる交渉中、被告は原告が仕事の邪魔をしないことを唯一の代償さして慰藉料、財産分与等の財産上の請求はすべて放棄し、財産はすべて原告に譲つたものである。しかして被告はすべて「中島弘子」なる名称をもつて本業たるデザイナーはもとより、テレビ、ラジオ、新聞、雑誌その他に広汎な社会的、文化的活動を行つているものであるから、今後右名称を使用し得ないとすれば、その社会的生命は瞬時にして失われ、回復しがたい損失を受けることは明らかであるから、かかる条項は被告の真意に反するものであり、被告は当初から撤回を申入れ、また実行不可能な条項であることを主張していたのであるから、当然原告は右が被告の真意でないことは知つていたものであり、仮りに知らなかつたとしても多年夫婦として共同生活をして来た原告としては当時の経緯から被告の心情を理解し得たはずであり、少くとも一般人の注意をもつてすればかかる条項が被の内心の効果意思に反することは容易に知り得たはずである。

(2)  本件特約は原告が被告の窮迫に乗じて締結せしめたものであつて公序良俗に反し無効である。別居以来被告は原告との離婚を求めて交渉すること四年、ようやく離婚の協議ととのい、協議書作成の段階にいたり、突如として離婚後の称号使用の禁止の一条の約諾を迫られたのである。この条項は他のいかなる条項よりも被告にとつて致命的影響あるものであり、本来応諾しがたい性質の事項であつた。しかし被告がこれを承諾しなければ過去四年にわたる離婚交渉の努力は水泡に帰するばかりでなく、離婚を実現するためにはさらに四、五年の日子を費さねばならず、その間の心労はほとんど耐え難く、またどのような難題をふきかけられるかも知れないものと苦慮して、やむなくこれに調印したのである。被告の右意思表示は自由にして任意な決定にもとずくものではなく、実に被告の窮迫に乗じ、被告にいちじるしく不利な契約をなさしめたものであり、公序良俗に反する。

(3)  本件特約は被告個人の営業活動の自由をいちじるしく制限し、生活権をおびやかす効果をもつもので、原告が離婚にさいしかかる契約を締結させたのは個人の尊厳と両性の本質的平等を規定した憲法第二四条に反し無効である。

(4)  本件特約は社会の健全な倫理観念に反し無効である。夫婦が協議離婚をするにさいして取りきめる条項についても社会の健全な倫理観念に従い公正妥当な限界があるべく、夫がその優位な地位を利用し相手方に対し公平を失するような過酷な条項を約諾させることはできないところ、本件特約を含む離婚のさいの原被告の協定では財産関係はことごとく原告の有利に解決した上さらに被告の社会的声価に致命的損失を招く条項を約諾させたものであり、これにより原告は離婚後の被告の自由をなお拘束しようとするものであり、社会の健全な倫理観念に反するものである。

(四)  原告が本件特約の履行を求めるのは権利の濫用であつて許されない。デザイナー中島弘子なる地位ないし名声は被告が多年にわたり築き上げた努力の結晶ともいうべきものであつて、この社会的評価を一挙にして失えば回復することのできない甚大な経済的損失を受ける。被告が離婚後もデザイナーとして従前の地位及び名声を維持するためには中島弘子という世間に知られた名称を用いることは当然であり、必要不可欠な手段であり、この名称は被告にとつてデザイナーとしての生命である。これを被告から奪えば一朝にして無名となり、致命的打撃を受ける。今日の社会においてネームバリユーがいかに高価なものであるかは多言を要しない。もし中島弘子なる名称にともなう評価が原告中島の姓のもつ固有の価値に依存するものであり、あるいは原告自身が社会的に著名な人物であつて中島弘子の名声が原告のこの社会的名声を背景とし利用しているといつた関係にあり、さらに原告が夫として、協力者として中島弘子なる名声を築き上げるについて多大な寄与をしたというような事情が存在するならば、原告が離婚の条件として被告に対し離婚後中島なる名称の使用を差し止めるのはあるいは一理あるかも知れない。しかし本件ではかような特別事情は皆無である。中島なる名称は世間にありふれた姓ないし名称で、それ自身名声を産み出す価値を有しない。また原告中島の実家は地方の平凡な一家庭に過ぎず、原告自身も一サラリーマンたりしもので個人的な声望など有せず、また被告の名声に寄与したわけでもない。従つて原告が被告に対し中島なる名称の使用禁止を求める実質的権利はなく、離婚の条件とすること自体すでに不当である。もともとなんびともその職業的活動において自己を表示するためいかなる名称を使用するかは全くその人の自由であり、商号もまた原則として自由である。被告がデザイナーとしての職業活動上中島弘子なる名称を選定使用したのは離婚前多年にわたる期間であり、これによりこの名称の使用は正当化し独立した経済的価値を有するにいたり、法律上保護せられるべき実体を有する。被告はデザイナーとしてこの名称を使用しているのであつて、これにより原告中島邦一と誤認するおそれは全くなく、この名称を差し止める実益を有しない。権利は単に権利者の自己満足の手段として認められるものではなく、社会的に保護せらるべき正当性を有するものでなければならない。原告が名称使用禁止を求める実質的理由とするものの基調には中島なる姓が原告家の家名であるとする考え方があるが、これこそ古い観念であり、時代錯誤である。原告の請求は自己の感情の満足という恣意的動機に出るか、これを口実として多額の金銭を取得しようとする不法の動機に出るかのいずれかである。これを要するに本件請求は原告にとつて何ほども利するところがないのに被告の受ける損害は測り知れず、結局において被告を苦しめるためにのみするものであつて、正に権利の濫用である。

(五)  仮りに然らずとしても原告は被告が中島弘子なる名称を使用することを承諾した。すなわち被告の母安藤敏子が本件特約の期日である昭和三六年二月二八日の二日前、被告の代理人として原告方を訪れ、本件特約はとても実行不可能であることを申し入れたところ、原告は被告の母に対し「自分はその事について何とも思つていません。実家の両親が弘子が家を出たことを怒つて中島という名は使わせないといつているのです」との趣旨を語り、原告自身は被告が中島なる名称を使うことに異議のないことを表明した。仮りに明示的な承諾でないとしても暗黙の承諾たることは明らかである。

(六)  本件特約は強制履行の対象たるに適しない。本件特約にもとずく債務は債務者の任意の履行にまつほかこれを強制する方法はないから、結局法律上の強制をともなわない約旨と解すべきである。また本件は将来における不作為を求めるものであるから、原告について損害の発生等あらかじめ防止する利益がなければ許されず、本件について原告に損害の発生することは考え得ないものである。

三、立証〈省略〉

理由

一、原告が昭和二二年被告と婚姻し、被告は旧姓安藤から原告の氏である「中島」姓を称するにいたつたこと、被告が服飾デザイナーを開業し、有限会社アトリエ中島を設立し、昭和三一年にはデザイン研究のため渡仏したこと、被告が吉忠株式会社の専属デザイナーであり、服飾界のみならずテレビ、ラジオ、雑誌、新聞等各方面に「中島弘子」の称号をもつて活動を続けていること、被告が昭和三二年原告と別居し、爾来離婚を求めた末昭和三六年一月二八日原、被告間に協議上の離婚が成立し被告が安藤姓に復氏したこと、右離婚にさいし被告が原告に対し「昭和三六年二月二八日以後被告は中島なる姓ないし類似の称号を商号、ペンネーム等に使用しない」旨の特約(本件特約)をしたこと、右日時経過後も被告が「中島弘子」なる名称をもつて自己を表示していることは当事者間に争ない。

二、原告は本件特約にもとずき被告に対し、被告が「中島」なる姓を称号使用しないように求めるものであるところ、被告は右特約は無効であると主張するから、以下順次これについて検討する。

(一)  まず、被告は本件特約は被告の非真意の意思表示であり、原告はこれを知り、又は少くとも知り得べかりしものであつたと主張する。成立に争ない甲第一、第二号証、乙第二号証の各記載、証人渡辺邦之、同竹野家茂の各証言、原被告各本人尋問の結果及び本件口頭弁論の全趣旨をあわせれば、被告は原告が他の女性と交渉をもち被告に同居に耐えない侮辱を与えたことから昭和三二年中以来別居し、離婚を求めていたが、原告はむしろ被告の復帰を望んで容易に同意せず、その間三年余を経過したが、ようやく昭和三五年一一月ごろにいたり原被告間に基本的な点で意見の一致を見、協議上の離婚をすることとなり、その手続及び離婚にさいして取りきめるべき財産の帰属その他の事項のとりまとめ方を弁護士渡辺邦之に委任し、同弁護士において原被告及び被告の父の代表者たる建物保全株式会社につき意見の調整をはかつたところ、原告の肩書住居及びその占有する財産は原告のものとすること、原告が有する有限会社アトリエ中島の持分及び建物保全株式会社の株式はそれぞれ被告及び被告の父安藤繁次に譲渡し、その各役員を辞任し、建物保全株式会社は退職金二五万円を原告に支給すること、被告が現住所に占有する一切の財産は被告のものとすること等については意見の一致を見た、しかるに原告はさらに離婚後被告は直ちに復氏するほか爾後「中島」の称号をペンネーム、商号等一切に用いないこととの一条の承諾を求めた、これに対し被告はすでに婚姻中から用い来つた「中島弘子」の称号を変更することは困るとして右提案の撤回方を求めたが、原告は他の条項はともかくこの一条だけは自分のみならず、実家の両親等のおもわくあつて譲歩しがたいとしたため協定の成立は困難となり、協議離婚そのものすら成否があやぶまれるにいたり、もし他の方法によるとすれば離婚はさらに数年後となるほかはない情勢となつたので、被告はやむなく右条項を原則的に受け入れることとし、唯その実行につき一年間の猶予を求め、折衝の結果一カ月だけの猶予となつた、そしてその協議書(甲第一号証、乙第一号証)作成の段階にいたつて原告はさらに類似称号の禁止をも求めるにいたり、被告はこれもまたやむなしとして承諾し、昭和三六年一月二八日原被告のほか、仲人竹野家茂、渡辺弁護士並びに被告の母及び兄(東大出身の工学博士、大学教授)ら立合の上右協議書に調印して本件特約の成立を見たものであることを認めることができる。この点につき被告はその本人尋問において本件特約は当初から履行不可能のものであり、被告に履行の意思はなかつたものであると供述しているが、「中島弘子」なる名称を今後使用し得なくなることが被告の職業たるデザイナー業その他の活動に多大の支障を及ぼすものであり、不本意のものであることはこれを諒し得るとしても、右認定のような本件特約の成立にいたる過程にかんがみれば被告が当初からその履行の意思なく単に表面上だけこれを承諾したものとするのは相当でなく、むしろ被告としては右の一条を拒否して再び離婚のための才月を費すか、この一条による困難を受忍しても即時離婚を成立せしめて自由の境涯に入るかの二者択一の立場に立ち、その肉親とも相談し、かれこれ比較考量の上後者を選んだものと解するのが相当である。この点の右被告本人の供述は採用しない。従つてこの点の被告の主張は失当である。

(二)  次に被告は本件特約は原告が被告の窮状に乗じて締結せしめたもので公序良俗に反すると主張する。本件特約にいたる事情は、被告がこれを拒めば過去三年余の離婚交渉が水泡に帰し、さらに離婚を成立せしめるためには数年の年月を要すべき事情にあつたことは前認定のところからこれを推認し得るものであるが、このことから直ちに本件特約が被告の窮迫に乗じてなされたものとするのは早計である。前認定の事実によれば当時被告はすでに原告とは別居中であり、その原因が原告の女性関係からする同居に耐えない侮辱であつたから、原告において協議離婚に応じなければ被告としては離婚の調停を申立て、不調ならばさらに離婚の訴を提起し得たはずであり、この方法により究極の目的を達するにはなお数年を要するとしても、当時被告には単に離婚による身分関係の解放という一般的事由のほかには、特に再婚その他一日を争つて離婚手続を急ぐというような特段の事情があつたことはこれを認め得ないのであるから、何物にもかえて本件の協議離婚を成立せしめなければならないという窮迫した境遇にあつたものとはいうことができない。その間の事情はすでに多年独立して社会的活動をし、その業績によつて社会的評価を得ている被告としては十分これを検討する余裕があつたものであり、要すればその肉親や友人の助言を得ることもできたはずである。むしろ被告としては諸般の事項についてその利害得失を比較考量の上本件特約に及んだとみるべきこと前記のとおりである。従つてこれがその窮迫に乗じたものであり、自由にして任意の意思決定ではないとする所論は採用できない。

(三)  次に被告は本件特約は憲法第二四条に違反すると主張する。本件特約が本質的に被告の営業活動の一面に制約を加えるものであり、被告が「中島弘子」なる称号を使用し得ないとすればその社会的活動に多大の支障を来たすことは諒し得るが、これ被告が自ら諸般の利害を比較考量の上約諾した結果であり、たやすくその結果を免れることはできない。これをもつて特に個人の尊厳をおかし、又は男女の平等に反するものとはいえず、憲法第二四条の違反とは解し得ない。

(四)  さらに被告は本件特約は社会の健全な倫理観念に反すると主張する。しかし本件において本件特約を含む原被告の協定の内容は前記の如きものであつて、原告もまた有限会社アトリエ中島及び建物保全株式会社についての一切の権利について譲歩しているものであるから、必ずしも一方的に原告の利益にのみ偏したものというべきではない。もともとこれらの権利が原被告の婚姻にともなつて原告に与えられたものであつたとしても同様である。そして被告がその婚姻中使用し来つた中島弘子なる名称を離婚後使用しないことを約諾せしめたのが特に夫たる優位の地位を利用したものと解すべき事由はない。妻が婚姻中夫の氏を冠した姓名によつて社会的にひろく名声を得た後離婚によつて復氏することは法律上当然の効果であるが、従前の名称をそのままペンネーム、商号等として用いるかどうかは当事者の任意に定めるところによるものであり、夫が当然の権利として右ペンネーム等の使用を禁止し得るものでないとともに、これを相手方の承諾のもとにペンネーム等としても用いない旨を約せしめたとて、特に社会の健全な倫理観念に反するものということはできない。

三、また被告は原告が本件特約にもとずき被告にその履行を求めるのは権利濫用であつて許されないと主張する。被告が離婚後もデザイナーとして従前の地位及び名声を維持するには従前と同じ中島弘子という名称を用いることが好都合であることは事の性質上これを首肯するに難くはない。しかしこの名称が被告のデザイナーとしての生命であり、これを失えば一朝にして無名の存在となるというのは多分に誇張がある。「中島弘子」なる名称そのものに何らか特別の意味ないし暗示力があるというならば格別、そうでないことは被告本人尋問の結果からも明らかである。むしろ証人海老原光義の証言及び被告本人尋問の結果によつて考えれば、この種の社会的名声は個人の才能や業績が本質的要素をなすものであつて、その社会的名声を得た名称を変更することの不利益なるものの内容は、名称変更にかかわらず、当該本人が前後同一であることについて一般の認識を得るために多少の時間を要し、かつその間多少の不便があるという程度のものであることをうかがい得るのであつて、必ずしも名称の変更は名声そのものに決定的打撃を与えるものではないといわなければならない。被告の場合服飾界が概して婦人を対象としており、さらにテレビ、ラジオ、雑誌、新聞等の関係ではその名声の消長は必ずしも才能や業績のみによらず、多分にいわゆる人気のようなものによつても左右されるであろう。

しかし被告が中島の姓をやめて他の姓を名乗つたがために多少ともその名声に影響があるとすれば、それは名称変更そのものの影響というよりはむしろ名称変更によつて暗示される離婚、再婚等の身上の変化そのものの影響というべきものでありこれその事実ある限り不可避であつて、両者はこれを区別すべきものである。一方原告側が本件特約を必要とした実質的理由は証人竹野家茂、同渡辺邦之の各証言、原告本人尋問の結果及び弁論の全趣旨をあわせれば被告が原告と婚姻後原告の氏である中島姓を名乗つて世に出で、知名の存在となつた後、原告と離婚して復氏し、本来法律的には中島の姓と関係がなくなつた後も、依然として婚姻中のそれと一点一画も異ならない同一の名称を用い、しかも独身女性として自由に振舞うことが、自分自身や自己の肉親にとつて苦痛であるというにあることはこれをうかがうに足りる。原告がしきりに家といい、家名というのはこれを採り得ないところであるけれども、現実として右のような苦痛のあることは人間感情の自然として理解し得るところであり、単にこれを恣意的のものとして否定し去ることはできないものである。このことは原告が東大出身の実業人ではあつても必らずしもいわゆる世間知名の士でなく、原告の生家がいわゆる名家というほどの存在でなくまた原告自身が被告の名声に必ずしも寄与したものでないと仮定しても、同様である。もとより人がその職業的活動において自己を表示するにいかなる名称を使用するかは原則としてその人の自由であり、商号もまた原則として自由である。そして原告には被告に対し離婚による法律上の復氏のほかには被告がペンネームとして従前の名称を用いることまでを禁止し得る当然の権利もないことはさきにも一言したとおりであり、反対に原告があえて離婚後の妻に従前の名称を用いることを許せば、むしろその雅量はたたえられるべきであろう。しかし両者特約をもつてこれを禁止することもまた当事者の自由であつて、なんら非難には値しないのである。原告の右禁止の要求がこれを口実として多額の金銭を取得しようとする不法の動機に出たものと断ずべき的確な資料はない。はたして然らば本件請求が原告に何物をももたらさず、たんに被告に致命的打撃を与えるためにのみするものと解するいわれはなく、その他に本件が権利の濫用にあたるものと認めるべき特段の事情はない。従つてこの点の被告の主張も失当である。

四、次に被告は、原告はその後被告が中島弘子なる名称を使用することを承諾したと主張するが、この点に関する被告本人尋問の結果によつてはまだ右事実を認めるに十分でなく、その他にこれを認めるに足りる的確な証拠はない。

五、さらに被告は本件特約は強制履行に適さないと主張する。これがいわゆる直接強制又は代替執行に適さず、またその不作為義務に違反したところを債務者の費用で除却するというにも適さないことは明らかである。しかしこれが被告における任意の履行にのみ委ねられるものと解する理由もない。

右特約にもとずく債務の性質は少くともいわゆる間接強制には適するものと解してさまたげない。その執行方法としてその不履行に対しいくばくの賠償を命ずべきか、そもそも右不履行によつて原告にいくばくの損害が生ずべきかは別個の問題である。また本件が将来における不作為をも求めているものであることは明らかであるが、被告が現に本件特約にもとずく履行をしていないこと当事者間に争ない本件においては、原告があらかじめ将来の禁止をも求める実益を有することは明白である。

六、最後に原告の請求の範囲について一言する。原告はその請求の趣旨において明らかなように被告が「中島」なる姓を称号使用することだけを禁止しようとするものであつて、本件特約全体の履行を求めるものではない。すなわち原告の姓そのものと同一である中島の二字から成る名称を使用することを差し止めるにあり、上来判示し来つたところもこの範囲においてである。原告は本訴請求として類似称号についてはこれが禁止を求めるものではなく、仮りに求めたとしてもそれは許し得ないものである。けだし本件特約の実質的理由は被告が離婚によつて法律上は復氏しながら、依然として婚姻中と同一の姓を用いて社会的活動をするにおいては原告及びその肉親に感情上耐えがたき苦痛を与えることとなるというにあつたことはさきに判示したとおりである。従つてこれをさらに類似称号にまで拡大するのはその実質的必要性を欠くものであり、無用に被告に不利益を強いるものとして社会的妥当の域を超えるからである。故に被告としては単に「中島」なる二字の結合による表示をさければ足りる。これらの文字の一部を変更を加え、あるいはかえるに他の字をもつてするならば、その呼称において同一であつても、もはやなんらその不作為義務に違背するものではない。

七、以上の次第であるから原告の本訴請求は理由あるものとしてこれを認容し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八九条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判官 浅沼武 中川幹郎 荒木恒平)

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